4月24日 植物学の日
4月24日今は何の日でしょう?

4月24日は「植物学の日」です。
日本植物学の父ともよばれる植物分類学者・牧野富太郎の誕生日であることに因んでいます。
牧野富太郎は1862(文久2)年に土佐国、現在の高知県佐川町の造り酒屋で商家の裕福な家に生まれました。
幼いころから植物に強い興味を持っていたようですが、造り酒屋の跡取りとして学問はいらないということで、明治時代に入ってからの新しい学制の元での小学校を2年で中退しています。
しかし、小学校を中退してからは大好きな植物採集に明け暮れるようになり、商売の方は祖母と番頭に任せきりにしていました。
15歳で小学校の臨時教員になると、高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れました。
17歳で江戸時代の本草学者・小野蘭山の「本草綱目啓蒙」に出会うと、日本中の植物を自分の手でまとめ上げる夢を抱きます。
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26歳の時に印刷技術を学び自分で絵を描いて、かねてから構想していた「日本植物志図篇」を自費で刊行しました。
この頃、牧野は研究者としての地位を確立し、高知と東京を往復する生活をしていましたが、祖母が亡くなると家業が傾いていきます。
27歳の時に、新種の植物を発見し、28歳の時には世界的に点々と隔離分布するムジナモを日本で初めて見つけました。
これらを学術論文で世界に向けて発表したところ、世界的に名前が知られるようになりますが、帝大の植物学教室の出入りを禁じられてしまい、研究の道が絶たれてしまいます。
31歳で再び東京帝大の助手の地位を得ることが出来ましたが、この頃には完全に生家は没落し、大学助手の給料で家族を養い、研究に必要な資金をねん出しなくてはなりませんでした。
ただ、学歴がないことと、大学から借りた文献などを研究に熱中するあまりに返却しない等のトラブルが続いたために、研究室の人達との関係もギクシャクしたものとなり、あまり厚遇はされませんでした。
また金銭感覚も欠如していたために、経済的には苦しく、家財道具一式が競売にかけられるようなこともありました。
その上、研究室でも大学の権威を理解しようとしない牧野に対して、何度も何度も学内から圧力がかかりましたが、それでも植物学の研究に必要な人材とされて、47年間もの間東京帝大に在籍しました。
65歳の時には理学博士の学位を受け、昭和15年、78歳の時に刊行された「牧野日本植物図鑑」は現在も改訂を重ねながら販売されています。
研究に没頭するあまり、周りが見えなくなってしまい、迷惑を掛けることもたくさんあった牧野富太郎ですが、彼が発見し命名した植物はとても多く、昭和天皇も後に引用した「雑草と言う名の植物はない」と言う名言を残しています。
昭和32年に94歳で亡くなってから約60年。
未だにその業績は受け継がれ、日本の植物学の基礎となっています。
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